御座を語る人たちシリーズ(益周斎龍撰)

江戸時代の南勢の草医と石碑に記載。
下記碑文は御座不動尊内に建碑されている。
現代語訳してあるが、参考までに原文をUPしておいた。
()内は訳注。

現代語訳
         
不動明王の霊験
 御座の郷は志州英虞県に属し、東は鳥羽城から十里
(40km)ばかりを距て、西北は紀勢の地に接し、南は海に頻干(汀に差し迫っていること)している。
 居住している民は百余家であり、漁をもって生業としている。その東北の隅の山谿の間に、不動明王堂がある。
 余
(私)は、釈空海がかつてこの地に来て、たまたま、貞石(堅い石)を見て、明王像をL作(爪でつまむこと)した、と聞いている。雨が剥ぎ、苔が蝕む千有余年、後の人は堂を構え、これを庇い、号して(告げて)言うには、秘佛を拜み観ることを許さないと。おおよそ百病の者は祷った時には霊験を得、帰仰の徒(不動明王を深く信仰する者)が到らない日はない。
 最近、一艘の賈船
(商船)が海上にあって、悪風に遇い、船底は穿って漏れて、ほとんど為すことが出来ない。船主はねんごろに明王に祷るのみである。
 漏れは止み、免れることが出来る。船主は怪しんで、ここを視ると、一つの
(一塊の意か)石決明(あわび)が著しく船底に干(かかわ)り、それでもってその隙間を塞いでいる。船主は明王が冥助(神仏がひそかに助けること)をしたことに驚異し、粛然としてこれを取って(明王像のところに)携えてきて、拝んで感謝をし、逐って海中に放して去る。
 この類のことは枚挙することが出来ない。
 堂の側には瀑泉がある。旱
(日照り)の時に雨を祈れば、即、応えてくれる。あるいは(人は)言う。島中、土竜(もぐら)がいないのは、思うに空海が呪(まじな)いをかけてこの所にいることを禁じているからである、と。
 余は壬寅
(1842)の秋に住居を移し、ここを干(もと)める。木樵や漁師、少しは土人(その土地に生まれ住む人)の説明を得て、これを記すことで跡を託す(後を頼んでいく)
   天保十四(1843)年癸卯孟春 南勢草医 益周斎 龍撰

原文


御座之郷属志州英虞県東距鳥羽城十里許西北接紀勢之地南頻干海居民百余家以漁為業其東北隅山谿之間有不動明王堂余聞釈空海嘗来此地偶見貞石L作明王像雨剥苔蝕千有余年後人搆堂庇之号日秘佛不許拜観凡百病者祷則獲験帰仰之徒無日不到近有一賈船海上遇悪風船底穿漏殆不可為船主懇祷明王已而漏止得免船主怪而視之有一石決明著干船底以塞其隙船主驚異以為明王冥助粛然取之携来拝謝逐放海中而去比類不可枚挙堂側有瀑泉旱時祈雨即応或云島中無土竜蓋空海呪而所禁也余以壬寅之秋移居干此託跡樵漁聊得土人之説以為之記
   天保十四年癸卯孟春  南勢草医益周斎龍撰

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